コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

2021年/緊急事態宣言/「伝統」としてのさんま芸

2021年になった。年末年始も基本的に諸々作業し続けているため、年明けの感慨も正直言って特に無い。もともと自分は儀式・儀礼的なものについて無頓着なタイプということもあり、ただ粛々と日々を送っている感じ。ただ、元旦にパートナーと一緒に食べるおせち料理はやっぱり美味かった。「美味しいな」と連呼していると、「味覚が順調に老けてきてるね」とパートナーに言われ、なるほどたしかに…と思うなど。

 

東京・埼玉・千葉・神奈川が、政府に対して緊急事態宣言の発出要請。しかし国や自治体がきちんと補償を確約した上での発出でなければ、言うまでもなく多くの市民や個人事業者、中小企業がダメージを受ける。市民のために働くことよりも、政治屋としての自己保身にこの期に及んで執心しているような輩を次の選挙で追い落とすためにも、今現在の諸々の動向をとにかく注視しておくしかない。

 

前述のとおりなんだかんだ忙しいので年末年始のテレビ番組もさほどチェックできていないのだが、チラチラと観ている限りでは相変わらずどうにも機能不全を起こしていて厳しいものがある。コロナ禍で思うように制作できない足枷はあるのだろうが、それにしたってこのメディアとしての(悪い意味での)老化及び、過去の自らの自己模倣・縮小再生産状態は辛い。

そのなかで改めて気になったのは、明石家さんまの「キツさ」だった。ぼくはさんまという芸人の根無し草性や、軽薄でテキトーなキャラクターイメージの保持を頑なに崩さないスタンスが嫌いではない。そういう彼の芸風はかつて、80年代フジテレビ的な「思想」、つまり、反復と蓄積に裏打ちされた芸よりも表層的な瞬間芸の方がもはやラディカルなのだという開き直りの「思想」とシンクロし、数々の達成を果たした。

90年代においてダウンタウンが「ひょうきん族」的な文脈をひっくり返し、また日本テレビのドキュメンタリーバラエティが「物語」を提示するようになるとさんまは苦戦を強いられるが、それでもゼロ年代以降は「お笑い怪獣」等の呼称が象徴するように、(80年代当時の腰巾着キャラは隠蔽され)安定的な大御所タレントの位置を確保している。

しかし(半分はジョーク、半分はガチで)「ひょうきん族」的なものをレジェンドとして崇めるナインティナインのような芸人の後押しもあり、さんまは自身の「表層的な瞬間芸」を、いつの間にか本気で「伝統」として提示してしまっている感がある。ダチョウ倶楽部のおでん芸が「伝統芸」と呼ばれるとき、そこにはジョークとしての含意がもちろんあるわけだが、バラエティ番組におけるさんまの立ち回りを「芸」として持て囃す人々の顔つきは、もはや恐らく真剣そのものだろう。

20世紀末の日本のテレビバラエティ文化は間違いなく時代のあだ花であり、「あっという間に消費されてその場限り」の文化でしかなく、だからこそ意味があった。そしてその「その場限り」性において、さんまはビートたけしよりもタモリよりも抜きん出た存在であった。そして今、本質的には「瞬間芸」でしかない自らの身振り手振りを価値付け・「伝統」化し、後続世代に誇示するかのようなさんまの姿は、無責任な観客としてのぼくには「キツい」。最後の最後で「こうしてやってきたすべてが、単なる冗談に過ぎない」と言い放つようなペラペラの軽薄なキャラクターに、彼はなり損ねてしまったように思う。なりたかったかどうかは知らないが。

 

そして、「あっという間に消費されてその場限り」の文化がいまどの環境において存在するのかを捉えることは、とても重要である。少なくとも、その環境がテレビではないことだけははっきりしている。

 

 

USポストパンクバンド、プロトマーター。結構好きで、ここ最近よく聴いている。

Protomartyr - June 21 (Official Video) - YouTube