コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

TVOD『政治家失言クロニクル』発売

前回記事からすっかり時間が経ってしまった。久々にブログ更新。

 

最近の活動。

TVODの新刊単行本が、明日11/24から全国書店にて発売されます。タイトルは『政治家失言クロニクル』、発行元はP-VINEです。

詳しくは是非、下記リンクを。

政治家失言クロニクル | ele-king

ele-king booksからリリースできたのが、嬉しいです。

前作『ポスト・サブカル焼け跡派』では、サブカルチャー批評の方法で70年代以降の日本文化精神史を描くことを試みましたが、今回は政治家たちの「失言」をフックにするやり方で、戦後日本政治史を自分たちなりに旅してみました。本作もTVODふたりがガンガンお喋りする構成になってます。是非読んでみてください。

コメカが経営する国分寺駅そばの古本屋・早春書店でお買い求めいただくと、オマケペーパーも付いてきます。

早春書店(so-shun-shoten.com)

 

最近のその他活動は下記の感じです。

 

美学校オープン講座「基礎教養シリーズ〜ゼロから聴きたい日本のニューウェイブ〜」講師を、TVODが担当しました。

下記リンクより、アーカイブ映像がご購入いただけます。

bigakko.jp

TVOD+岸野雄一さん+横川理彦さんによる、約4時間の講座映像となります。動画概要欄には、講座レジュメ(約1万文字)のリンクも用意してます。

TVODなりに、力技で1980年代の日本ニューウェイブロック史をまとめました。資本によるアンダーグラウンド・カルチャーの搾取&商品化、といった問題意識を反映させたつもりです。

実際に当時の状況を体験された岸野さん・横川さんのお話がとても興味深く、勉強になりました。皆さんにも是非聴いていただきたいです。

 

中央公論11月号、特集「90年代文化という分水嶺」に、TVODによる記事『「ネタ」として消費できること、できないこと SNS前夜の日本社会が残した課題』が掲載。

 

BRUTUS  特集 村上春樹 上 「読む。」編 』、「年表で探る。文芸・社会学・カルチャーで振り返る、村上春樹の時代。」にて、TVODがカルチャーパートを担当。

 

『なnD 8』に、メディア批評家のプシク氏(粉川哲夫氏です!)との鼎談「東京オリンピック2020と東京の街」でTVODが参加。


などなど。お仕事のご依頼は comecaworks@gmail.com までご連絡くださいませ。

 

 

最近は改めて、活動をコツコツ長く続けていくことの大切さについて考えたりしております。自分がどうしてもやりたいことは、ちょっとずつでもいいからやめずにやり続けることが大事。しんどいときは休憩すればいいし。それぞれ自分のペースでしぶとくやっていきましょう。

「言葉」の幹になったもの

週刊文春の記事『小山田圭吾 懺悔告白120分「障がい者イジメ、開会式すべて話します」』と、コーネリアスのオフィシャルサイトに掲載された「いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明」を読んだ。ロッキング・オン・ジャパン及びクイック・ジャパンにおける小山田圭吾記事についての自分の考えは、7月時点でTVODブログ「小山田圭吾氏を起点とする一連の出来事について / TVOD - TVOD (hatenablog.com)」に書いた。文春記事及び「お詫びと経緯説明」を読んでの雑感を、書き留めておく。

 

Twitterで最初の謝罪文が発表されたときにも思ったけれど、今回の文春インタビュー及び説明文書を読んで改めて、小山田が過去の自らの発言・振る舞いについて言語化しようとしていることに、自分はいろいろと感じるところがある。作家としての小山田圭吾はデビュー以来あらゆる意味で、社会に対して正面から「言葉」を投げてはこなかった。しかし今現在この時点での彼は、ぎこちない手つきではあるが社会への説明を試みている。そしてその説明のなかで、小山田はかつての自分について、軽率、無責任、と記している。

 

いじめを複数の雑誌メディアとひとりのミュージシャンがかつて如何に取り扱い、生まれた記事が今現在に至るまでどのように読まれ報じられ、論じられてきたか。現在問われているこの問題のなかにあるひとつの課題は、いじめについての言葉はどう組み立て得るのか、その言葉は社会に向けてどのように発せられ得るのか、というものだと思う。QJの当時編集長・赤田祐一や、該当記事のライター・村上清は、自分たちはサブカルチャーの方向からそれを試みたが、そこに未熟さ・意識の低さがあったことを反省している、という意を含む謝罪文を発表した。小山田も赤田・村上も、かつての自分たちの語り方・方法論の間違いや限界を認めることになった。

 

ROJ山崎洋一郎も当時の記事について「その時のインタビュアーは私であり編集長も担当しておりました。そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います」と語っている。ただ、なぜ小山田インタビュー内でいじめの話をピックアップし、ああした形で演出・改変したのかということについては、彼はまだ語っていない。ROJはあのときどのように言葉を組み立てようとしていたのか。雑誌として何を提示したかったのか。山崎にはそこを語ってほしい。サブカルチャー・メディアとしてのロッキング・オンにとって、それは本当に重要な問題だと思う。

 

ある種のサブカルチャー雑誌のような場で組み立てられ発せられた「言葉」に、ぼくは育てられてきた。もちろんそれは、コーネリアスやかつてのROJ、QJのような類のサブカルチャーに関心を持ってこなかった人にしてみれば知っちゃこっちゃない話だ。そういう人々が、こんなタイプのサブカルチャー的な場や「言葉」なんて必要ない、消えてしまえ、と言う場合、それはひとつの道理だなとは思う。だが少なくとも、ぼくはそう言う気はないし、そう言う権利もない。社会に対して何かを説明するときの自分の「言葉」の方法論自体に、諸々のサブカルチャーから学んだものが入り込んでいる。この文章自体もそうだ。今回のような問題は、自分の使う「言葉」の幹のなかにあるものだと思っている。そしてそのことは、ではぼく自身はいじめについてどう語り得るだろうか?という問いにも繋がる。

 

かつてのサブカルチャーで育った自分が、今後社会に向けてどのように「言葉」を語るか。社会に向けて自分自身の「言葉」を語ることは、ミュージシャンや編集者や、作家や政治家や、そういった類の肩書きを持つ人々だけがやるべき作業ではない。その作業がさまざまな人々に広く開かれた社会こそが、風通しの良さを保ち得る。小山田が今やり直そうとしていることのなかにも、そうした作業が含まれているはずだ。彼や赤田・村上らが認めたような間違い・限界を内包したサブカルチャーで育った自分も、ではこれからは何を如何に語るのか、語れるのかを考え、自分なりに実行するしかない。自分の幹になったものは、即座に斬り落とすことではなく、時間をかけてそれを見つめ直すことでしか、捉え返しが不可能であるように思う。

ZOC現状について雑感

ZOCの今回の件については、メディア上で可視化された情報が現時点ではあまりにも断片的過ぎて、断定的なことを言うのは難しい。ライヴで本人たちから説明のMCがあったらしいが、ぼくはそれを聞いたわけでもない(=MCという一次ソースに直接あたれていない)。しかしこのライブレポート記事(【LIVE REPORT】ZOC、メンバー同士の想いをぶつけ合った涙と決意の仙台公演 | StoryWriter)で、「大きな声を出してしまったインターネット上にあがっている音源については私の声そのものです」という大森靖子の発言がレポートされているから、件の音源が偽物・フェイクではない、ということは確実なのだろう。コンテクストがどうあれ、ああいう形で「大きな声を出してしまった」ことはパワーハラスメントでしかあり得ず、それは肯定されてはならない行為である。

 

メディアを介して伝達されていく音楽作品・表現と、その制作プロセスとしての具体的な共同作業・労働は、当然ながら連関している。だが今回のようにその後者の現場において問題が発生し、かつそれが断片的な形で公になっているような場合は、然るべき対処の仕方があるはずだ。音楽作品やライブパフォーマンスのなかに無理矢理組み込んだ形でその解決や言及を図ると、諸々の問題が表現としての「物語」やエモーションのなかに回収されてしまいかねない。やはり楽曲YouTube動画やライブMCのような形ではなく、まずはグループ・運営としてきちんとした公式コメント文書を出し、状況説明をするべきだと思う。その上で制作体制を再構築する必要があるのではないか(外部からは現時点でもその具体的な構造は不可視であるわけだが)。

 

作家としての大森には、他者からの視線によってではなく、自分で自分を見つめる視線を通して自己構築・自己改変することを目指す思想があると自分は考えている(そしてその思想を作品化する力において、ぼくは大森を現代日本サブカルチャーにおける重要作家と見做している)。今回の件についての断片的な情報のなかにもその思想は見えてくるし、そしてそういう作家としての大森自身がいまだ混乱のなかにあることを、個人的には改めて感じもした。だがそういった作家・作品という水準への批評は、労働現場における具体的問題の解決に対しては言うまでもなく無力である。バンドやアイドルグループのような制作形態には、個人名義の活動運営とは別種の困難が伴う。ましてや大森という強烈な力を持つ作家を中心にしたグループであれば、運営における適切な方法論を確立しない限り、パワーバランスや関係性の問題は生まれ続けるだろう。

 

どこまでいっても外野からの物言いにしかならないし、当人たちは既に百も承知なのかもしれないが、ZOCはやはり制作環境や方法論の具体的な見直しをするしかないのではないか。このままの形態で活動を続ければ、メンバーも作品・表現も、取り返しのつかないダメージを負ってしまうように感じる。ZOCはグループ内の関係性から「キャラクター」を生み出すのではなく、自立した「キャラクター」を各メンバーが自分自身で作り出し得る活動だと当初ぼくは感じていたのだが、ここまでの活動ではメンバー間の相互関係性の方がむしろ強調され、過剰な衝突が反復されてしまっている。更にインターネットを介したコミュニケーションゲーム=事実上のリアリティ・ショーにグループ活動そのものが現状飲み込まれてしまっており、そのことは今後、各メンバーの「キャラクター」の崩壊を招きかねないように思う。

 

現時点までの情報を参照して自分が考えたことを、ひとまず書いておく。

あえて「大人」になる

ぼくは今年で37歳になるが、自分が「大人になった」という実感が正直、無い。30代半ばの人間というのはもっと成熟し落ち着いた精神を手に入れているものだろうと、子どもの頃は思っていた。いま現在のぼくは「はやく大人にならなければ」といまだ常に焦っており、成熟とは程遠い形で毎日を生きている。

 

2003年のケラリーノ・サンドロヴィッチ監督作品『1980』に、「人間、大人になればみんな自然に大人になれると思ってるんだろうけど、実際、大人になってみな?人間ね、大人になったからって、大人になんかなれないんだから!」という台詞がある。年齢を重ねたからといって自動的に「大人」になれるわけじゃないんだ、という煩悶ともがき。

 

まあただ、そもそも「大人」というもの自体が、社会状況・構造によってその捉えられ方・在り方が変わってくる。共同体の成員としての「大人」なのか、近代的・理性的な主体という意味での「大人」なのか、などなど。しかしいずれにしろ、「大人」であろうとすると何らかの排他性を帯びてしまうことは、恐らくいつの時代も変わらないだろう。「大人」として生きようとする人々は常に、所属共同体の外側を、「近代的理性」以外の在り方を、疎外してしまう可能性がある。

 

先述した『1980』の台詞は、なんらかの共同体の成員にも、近代的・理性的な主体にも、とにかく「大人」と想定されるような在り方にどうにも至ることができない、という叫びとして読むことができる。ちなみに1980年代の日本のサブカルチャーにおいては、「子ども」的な在り方というのは度々テーマ化され、繰り返し表現されていた(KERAが80年代当時に組んでいたバンド・有頂天にも、「子ども」的なイメージやモチーフを扱った楽曲は多い)。本田和子らによる子ども論が注目を集めたのもこの頃である。

 

80年代というのは、共同体なり近代的主体なり、そういった枠組み・在り方に対する懐疑というものがそれまでよりは比較的広く共有され、表現された時期だったと言えるだろう。ポスト・モダニズムの(小規模な)流行、プラザ合意以降のバブル景気が生んだ浮遊感、そういう諸々が織りなす気分のなかで育まれた表現や感性が、いろいろとあった。「大人」として生きることから「逃走」しようというテーゼが、ポップなものとして受け止められたりもしたのだった。90年代以降には、こういう気分を新保守的な立場から批判する流れも生まれてくる。ただ少なくともある種のサブカルチャー領域においては、このような志向はその後も通奏低音的に流れ続けていたと思う(社会の問題よりも自意識の問題に過度に傾倒するような態度も含めて)。

 

しかし2010年代半ばからのこの数年、自分は「大人にならなければ」と思いながら過ごしてきたし、「大人になるべきだ」という旨の言葉をインターネット上でも何度も口にしてきた。一応リベラル左派を自認し、80年代サブカルチャーに思い入れを持つ=「子ども」的な文化に傾倒してきた自分が「大人」になることに執着するのは、共同体に積極参加するなり主体的なコミットメントを引き受けるなり、何がしか「大人」としての態度をとることが、構造破綻しつつある日本社会においては必要なんじゃないかと考えているからでもある。そういう態度がそのまま抑圧や排他性を生むことはたしかなのだが、それでも「あえて」今それを引き受けようとしなければ、この状況には対応できないんじゃないかと思っていた。

 

……思っていたというか、今でもそう思っているし、「近代」を永遠の努力目標として捉えるような感覚で、自分は「大人」を目指し続けながら一生を終えるだろうなという予感はある。そういう態度を批判される覚悟を持たなければとも思っている(さまざまな人々によるそれぞれの態度が関係を織りなし、相互批判や議論を繰り返していく社会を自分は望んでいる)。ただ、「あえて」やること、つまり「大人」になろうとする態度そのものがあらかじめ限界含みのものであると自分のなかで前提化しておくことは、言うまでもなく他人からは不可視である。「あえて」やってる人間も、ベタにやってる人間も、外から見たらほぼ変わらないのだ。限界を抱えながら他者や状況にコミットしていくつもりであっても、他人からは原理主義者にしか見えないことは往々にしてある。

 

この、「自分の態度の限界を自覚しながらコミットする・コミュニケーションする」ということを如何に成立させていけばいいのか、自分は正直よくわからなくなってきているところがある。

 

(つづく)

パラレルワールド化する社会

宮崎:「位置について」という意味のタイトルだけれど、その内容をわざと曲解して作っています。いわゆる世紀末の後の話。放射能があふれ、病気が蔓延した世界。実際、そういう時代が来るんじゃないかと、僕は思っていますが。そこで生きるとはどう言うことかを考えながら、作りました。

きっとそういう時代は、ものすごくアナーキーになっていく一方で、体制批判というようなことについて、ものすごく保守化しているんじゃないか。それはまだ失うものがあると思っているから。何にもなくなると、ただのアナーキーになっていって、のたれ死にが始まるんです。そういうものを紛らわしてくれるのは、「ドラッグ」や「プロスポーツ」や「宗教」でしょう? それが蔓延していく。そういう時代に、言いたいことを体制から隠すために、隠語にして表現した曲と考えてみた。ちょっと悪意に満ちた映画なんです(笑)。

宮崎駿が描いた、原発爆発・疫病パンデミック後の世界『On Your Mark』 | スタジオジブリ 非公式ファンサイト【ジブリのせかい】 宮崎駿・高畑勲の最新情報 (jpn.org)

 

1995年に発表された、宮崎駿監督・脚本によるCHAGE&ASKAOn Your Mark」プロモーションフィルムについての、宮崎の発言。彼が言う「自分の希望、ここだけは誰にも触らせないぞというもの」の表象が、本作では「翼の生えた美少女」として顕れるというのが、正直何とも言えない気持ちになってしまうが。しかし抑圧される時代における「希望」についての思考というのは、2021年現在でも……というかむしろ、今現在、よりアクチュアルな課題になっている。「病気が蔓延した世界」での「体制批判」の「保守化」、「そういうものを紛らわしてくれる」「プロスポーツ」。



自民党河村建夫官房長官は31日、東京五輪で日本代表選手が活躍すれば、秋までにある次期衆院選に向けて政権与党に追い風となるとの認識を示した」

新型コロナウイルスが感染再拡大する中での五輪開催に批判的な声があることには「五輪をやっていなくてもコロナが増えていたと思う」と主張し「五輪がなかったら、国民の皆さんの不満はどんどんわれわれ政権が相手となる。厳しい選挙を戦わないといけなくなる」とも語った」

選手の活躍「政権に力」 自民・河村氏「五輪なければ不満は政権へ」 | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 

「五輪がなかったら、国民の皆さんの不満はどんどんわれわれ政権が相手となる」という言葉は、我々は五輪も選手も関係者も、自党の弾除けに利用しているのだという、ハッキリとした意志表明であるわけだが。あらゆる意味で最低。



「政府は2日、新型コロナウイルス感染症の医療提供体制に関する閣僚会議を首相官邸で開き、入院対象を重症者らに限定する方針を決めた。肺炎などの症状がある中等症のうち重症化リスクが低い人は自宅療養とし、家庭内感染の恐れや自宅療養が困難な場合は、ホテルなどの宿泊療養も可能とする。デルタ株の広がりで新規感染者が1万人を超える日もあり、病床不足への懸念が強まっているため、事実上の方針転換となる」

菅首相「重症リスクの高い人以外は自宅療養」 政府、病床不足で方針転換 :東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

 

新型コロナウイルス患者の入院要件を厳格化した政府方針について、田村憲久厚生労働相は3日の記者会見で、高齢者や基礎疾患がある人が自宅療養となる可能性があるとの見解を示した。これまでは原則入院だったが「比較的症状が軽く、リスクがそれほど高くない人は在宅も含めて対応せざるを得ない」とした」

田村厚労相「高齢者や基礎疾患ある人も自宅療養の可能性」 原則入院の方針転換<新型コロナ>:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

 

完全な政府の失策であり、棄民政策こんな状況にも関わらず、オリンピックは続く。「肺炎などの症状がある中等症のうち重症化リスクが低い人」「高齢者や基礎疾患がある人」が個々の自宅に放置される状況と、五輪に国民が沸く状況。パラレルワールド化する社会。もちろんこれまでもこの国は社会におけるさまざまな存在を見捨ててきたわけで、現状はそれが全面化したに過ぎない、という見方もできる。
しかし菅義偉は記者会見において「感染対策でしっかりと対応することが私の責任で、私はできると思っている」と(子どものようなレトリックで)発言しているが、はたしてどのように「責任」を取るつもりなのか。失われた人命はどうやっても戻ることはない。



The Wants『Container』。ブルックリンのポストパンクバンド。骨と皮のような簡素な構造のニューウェーブ・ロック。非常に好き。

感染者数 / 『ハコヅメ』 / 成長痛

東京都新型コロナウイルス感染者数、7月31日土曜日は4,058人、8月1日日曜日は3,058人。最初の緊急事態宣言が発出された2020年4月7日の東京都感染者数は80人だった。もはや形骸化した緊急事態宣言と、罹患者・医療従事者・労働や生活を制限された市民などなど、諸々の人々の苦しみを脇目に意気揚々と続けられるオリンピック。菅政権や小池都政がやっていることは完全な棄民政策だ。日常生活を送るだけで本当に気が滅入り、暗い気持ちになる。

 

ドラマ『ハコヅメ』(日本テレビ)、第三話まで視聴。オフビートな演出やギャグ感覚、キャストの的確な演技など、総じて心地良く観れる。だが、警察という素材がここまで「柔らかな包摂性・教育性」を帯びた環境として描写されることについては正直、奇妙なものを感じる。永野芽郁演じる主人公は、組織内の人々からひたすら柔らかく丁寧に「育てられる」。今後明かされる物語内容にその「柔らかさ」は恐らく関係しているのだろうが、体制というものをこのような筆致で描くことに抵抗が持たれないのが、現在なのだろう。

 

かつての日本型サブカルチャーが、ある種の人々の成長プロセスに寄り添う機能=成長痛的な痛みや混乱の吸収装置としての機能を持っていたとして、では2021年現在の若者には、そういう機能は必要とされているんだろうか?というようなことを、最近よく考える。何処に向けたらよいのか分からない混乱した感情のキャッチャーになってくれるような表現。倫理的判断のなかでは単なる「俗悪」表現として切って捨てられるような文化が、そういう機能を担うこともある。

 

ナイン・インチ・ネイルズ『プリティ・ヘイト・マシーン』。ものすごく久しぶりに聴いたんだけど、こんなに良かったっけ?と思った。

関係性の糸

7月29日東京都の新型コロナウイルス感染者数、3,865人。それでもオリンピックは続く。

 

関係性の糸に囚われていると、「自立」することが難しくなる。しかし社会のなかで生きるというのはどうしたって関係性のなかを生きるということなのだから、なんとか「自立」を目指すのであれば、自分を取り巻く関係性そのものを常に捉え直し続けることが必要になる。

 

Twitterでツイートされる言葉は、関係性の糸を過剰に意識し空気を読んだものになっていく。フォローしてるかしてないか、リツイートしてるかしてないか、いいねをつけてるかつけてないか、リプライしてるかしてないか、エトセトラエトセトラ。Twitter上にある、具体的に可視化はされないがうっすらと広がるコミュニティ内での、じゃれ合いや牽制のし合い。言葉が糸にどんどん絡めとられいく。

 

METAFIVEの新作が発売中止。どういう経緯で中止に至ったのかがアナウンスされていないため、現時点では状況判断できず。

 

社会に対する言葉を組み立てない(組み立てられない?)ことの恐ろしさ。

 

Mom『終わりのカリカチュア』。既に各所で絶賛されているが、とても良い。20世紀に中村一義の音楽を初めて聴いたときの気持ちを思い出した。