コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

「つまらない大人」として生きる

ぼくは今年2021年で37歳になるんだけど、もしいま自分が20歳前後だったら、「どうせ社会全体がめちゃくちゃなんだから、自分にとって居心地のよいコミュニティに閉じこもって生きたって別にいいじゃん!」みたいな心情に、もしかしたらなっていたかもしれないなあと、最近よく考える。

 

「社会」というのはもちろん肉眼で把握できるものではないから(笑)、それはイメージとして把握されたり、システムとして理解されたりする。そして、2021年の日本国における「社会」を、順調かつ健全なものとして把握・理解している人というのは、たぶんほとんどいないはずだ。例えば菅政権を支持するかしないかといった政治的意見の相違は人々のなかに当然あるわけだけど、「いまの日本社会は不調である」という見方はその相違を超えて、広く共有されていると思う。

 

コロナ禍におけるダメージまで含め、あらゆる意味でボロボロになり機能不全に陥っているのがいま現在の日本における「社会」のイメージだとして、そこで今後の未来を生きることに希望を感じられるかというと、言うまでもなくそれはとても難しい。年齢が若ければ若いほど、つまりこれからの未来の時間が長ければ長いほど、そこに困難を感じる度合いも当然強くなるだろう。

 

その状況下においても、いろいろな生き方があり得る。ある人は「社会」を立て直そうとするかもしれないし、ある人は「社会」の外側に出ようとするかもしれないし、ある人は革命を起こして「社会」や国家の形を根本的に変えようとするかもしれない。

そしてそういう「色々な生き方」のなかに、冒頭に書いたような特定コミュニティへの引きこもり、という選択もある。最近クローズアップされることの多い、閉鎖的なオンライン・サロンみたいなものも、そういう在り方のひとつのバリエーションだと思う。

 

ある種のカルト・コミュニティのなかでは、一般的な「社会」通念から見るとエクストリーム過ぎる考えや行動でも……というか、むしろエクストリームであればあるほど、コミュニティ内部の結束や信念が強固になる。自分自身の足場は「社会」にあると信じる人々は、そういうカルト・コミュニティに対して「そんな異常な信念や行動を共有し閉じこもることは危険だ、こちらに帰ってこい」と呼びかけるわけだけど、もし「どうせ社会全体がめちゃくちゃなんだから、自分にとって居心地のよいコミュニティに閉じこもって生きたって別にいいじゃん!」と返答されてしまったとしたら。いまの日本においては、この返答が返ってくる可能性は非常に高い。そのとき「社会」の側は、はたしてそれ以上何か説得的な言葉を語れるだろうか?

 

たぶん、いま現在37歳になるぼくや、多くの「大人」とされる人々が回復させなければいけないのは、そこで「社会」という単位を説得的に語れるようにするための力だろう。「社会」のなかで試行錯誤することに何らかの価値があると、説得力を持って「大人」が語ることができなければ、カルト・コミュニティよりも「社会」の方が参加に値すると若者に実感させることはできない。

 

いまの若者は愚かだ、何もものを知らない、安易にカルト・コミュニティに引きずり込まれてしまうほどに何もわかっていない、みたいな無責任な嘆き節を「大人」たちが繰り返していれば、若者たちは「社会」に対する信頼をますます失っていくだろう。そんな「大人」たちが自らの足場として語る「社会」にわざわざ参加したいと思う若者なんて、ほとんどいないはずだ。どんな人間も、関心や動機が無ければ積極的には動かない。そしてそういう若者たちの幻滅を、オンライン・サロンのインチキカリスマみたいな詐欺師たちは、巧妙に掬い上げていく。「はやくこっちの新しい世界においで、ここでなら君は輝ける」と、若者たちの耳元で甘く囁く。

 

ここまで読んでくれた人には恐らく分かるだろうが、ぼくは「社会」というものに対して非常に保守的な考え方をしている。そこに革命を起こそうとか、そこに逸脱的なコミュニティをつくろうとか、そういう発想が自分にはない。「社会」における微調整やメンテナンス、地道な修繕・改良、そういう小さな作業を繰り返していくしかないというあまりにもつまらない考えが、いま現在37歳になる自分のほとんどすべてである。毎日古本屋の仕事をしていることも、他人に向けて文章を書いていることも、そういうメンテナンス作業の一環だと思っている。

 

その「つまらなさ」が、想像のなかの20歳の自分を説得できるのかは、正直言ってわからない。しかしその「つまらなさ」にこそ面白さがあるんだということを、体現してみせるしかないのだと思っている。つまらない繰り返しのなかにこそ面白さがある。その面白さでカルト・コミュニティの面白さに勝つことでしか、「社会」のなかに若者を包摂することはできないのだと思う。倫理を語ることと同じかそれ以上に、この「社会」に内在し「つまらなさ」を反復することの面白さ、を見せつけることが大事なのだ。たぶん。

 

そして一応付け加えておくと、「お前みたいな『大人』につまらん話をされずとも、ちゃんと社会のなかで生きていくわ!ほっとけ!」という若者だって、言うまでも無くたぶん沢山いるだろう。そういう若者たちに、「つまらない大人」としてしっかりトドメを刺されることもまた、大事なことなんだろうなと思っている。