コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

テレビの「同一性」、そして「生態学的秩序」との距離について①

ビートたけしが「質問=回答」というTV的同一性の場に意識的なのは一目瞭然だ。彼の発する信号は別の意味へと反転し得る同時的両義性を具えていて、それが「点滅」に代表される、非常にTV信号的な彼の運動を高度に実現しているのだ。彼もまた「同一性」の場にいるのだが、そのさい彼が等号で結ぶのは、彼自身の「羽目外し」と「照れ」といった程度のものであり、結んではいけないものを等号で結んでしまって、悪無限の「同一性」に加担する「ストーリー」をTVが捏造する手助けを、彼は自ら行おうとは決してしない。注意深く見ればそこに彼の倫理性を看取し得る。しかしそうした彼の倫理をもってしても、TVという強力な同一性の場はいっさい揺るがないだろう。彼自身が同一性の中のあえかな差異として魅惑的にゆらぐことはあっても」

 

阿部嘉昭北野武vsビートたけし』(1994)

 

阿部嘉昭がこう書いてから30年経ち、日本のテレビは「同一性」の場としての力をいまではかなり弱めていると思う。だがそのことは例えば旧N党とか迷惑系YouTuberとかそういった諸々……端的に言えば、ある種の(しょぼい)破壊性を抱えた者ども……の伸長と表裏一体の事態でもあるだろう。そしてそもそも、ビートたけしテリー伊藤のような人々が、「TVという強力な同一性の場」の「強力」さを利用することで実行していた悪童的破壊行為と、先述したいま現在の(しょぼい)破壊者たちの在り方には、やはり似通った部分があると言わざるを得ない。

 

例えばかつてのサブカルチャー領域におけるテレビ批評めいた言葉というのは良くも悪くも、テレビが持っていた「同一性」や予定調和を嗤うようなものが多かった。しかしいま現在テレビを積極的に語ろうとする言葉の多くに、そのような「同一性」の問題への眼差しが欠けてきている印象が、ぼくにはある。「マスゴミ」みたいな言葉を使う安直で幼児的なテレビ懐疑(しょぼい破壊性)がある一方で、メディアとしてのテレビが持つ力に対して無頓着な、そこで提示されるメッセージをただ直線的に読むようなテレビ批評が増えてはいないか。「危ないネタ」も「リベラリズム」も「政治的意見」も、基本的にテレビは常に「悪無限の「同一性」に加担する「ストーリー」」に回収していくものだ、という当たり前の話が、意外に忘れられていないだろうか。

 

いま現在テレビを批評しようとする心性の多くはむしろ、テレビの「同一性」を対象化することを避け、残り少ないテレビの「同一性」の内部に無自覚に潜り込み、取り込まれたがっている印象すらある。

 

(②に続く)