コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

消費と解放

前回更新からあっという間に一ヵ月経ってしまった……。忙しいとどうしても、ブログを書くことについ構えてしまう感じになるな。なんとかチョコチョコ更新するぞ……。

 

上野 正しさだけで商売ができるとは、普通なかなか思えないですが。

 

辻井 私は企業にとって、その正義感こそが必要だと思っていましたね。

 

上野 どうしてですか。

 

辻井 消費者のためになることが、すなわちそれが百貨店にとっての正義です。消費者が不利益になることをしてはならない、ということです。

 

上野 そのお考えをどこでお持ちになりました?それまでの商人は売り抜ければそれでいい。どんなものでも売った時に商行為は終わる。変なものを掴まされたら、それは掴まされた側の責任。そういう考え方がありました。とくに敗戦直後は、そういう風潮があったと思います。

 

辻井 そうかもしれません。でも私は学生時代からずーっと、何事も「人のためになる」と実感できないと、落ちつけなかった。

 

辻井喬 上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』)

 

消費者主義による大衆社会への還元・貢献、みたいな、西武=セゾンのネジれた「左翼」性・社会への向き合い方というのは、今となってはむしろ一番分かりにくい在り方なのかもしれないなと、ちょっと思った。消費者側の快楽のブーストによって、階級差を解体(というか、隠蔽)していく。消費には倫理が必要、みたいな話ではもちろんない。そこにある快楽を積極的に最大化させ、そうして生まれる消費者主体の形成をひとつの解放とみなすような、「思想」。

 

階級差の隠蔽という意味では、いまだにテレビメディアが中心に置かれるような日本大衆社会の現状にもこういう「思想」は大いに影を落としているわけで、この国での政治性の忘却という問題には、それなりに入り組んだ文脈がある……と思う。市民革命を経験していない、というようなレベルの問題だけでなく……。

そもそもこうした文脈が生んだ「うれしいね、サッちゃん。」的な「幸福」というものがなければ、例えばぼくみたいな人間はこういう話をくどくど考えることもできなかっただろうし(そうやって足りない頭で不相応な問題を考えることそのものが無駄であると言われても、別に否定はしない)、そしてそういう「幸福」について改めて考えようとしたときに、問答無用で胸が痛んでしまうようなところが自分にはある。このあたりがかなりしんどいというか、難しい部分があるというか……。

 

こうしたアレコレを棚上げせずに考えていかないと、無根拠なナルシシズムに支えられた無責任の体系だったり、もしくはそれと表裏一体の、自罰的・自滅的な糾弾主義だったりに陥るだけ、という気はしている。「なんでこうなった?」をひたすら勉強して考え続けるという当たり前の作業を、頭が悪いなりにやっていくしかないなと思う。

 

Digital Danceという、70年代末から80年代初頭に活動していたらしいベルギーのニューウェイヴバンド。解散後、メンバーはそれぞれファド・ガジェットやウェザーメン、ドゥルッティ・コラム等に参加していたらしい。こんなバンドいたんだなあ。同時代のギャング・オブ・フォーやXTCっぽいポストパンサウンドで、非常に好み。ニュービートとかも含めて、ベルギーのニューウェイヴ史はもっと知りたいな。

Treatment

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