コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

「言葉」の幹になったもの

週刊文春の記事『小山田圭吾 懺悔告白120分「障がい者イジメ、開会式すべて話します」』と、コーネリアスのオフィシャルサイトに掲載された「いじめに関するインタビュー記事についてのお詫びと経緯説明」を読んだ。ロッキング・オン・ジャパン及びクイック・ジャパンにおける小山田圭吾記事についての自分の考えは、7月時点でTVODブログ「小山田圭吾氏を起点とする一連の出来事について / TVOD - TVOD (hatenablog.com)」に書いた。文春記事及び「お詫びと経緯説明」を読んでの雑感を、書き留めておく。

 

Twitterで最初の謝罪文が発表されたときにも思ったけれど、今回の文春インタビュー及び説明文書を読んで改めて、小山田が過去の自らの発言・振る舞いについて言語化しようとしていることに、自分はいろいろと感じるところがある。作家としての小山田圭吾はデビュー以来あらゆる意味で、社会に対して正面から「言葉」を投げてはこなかった。しかし今現在この時点での彼は、ぎこちない手つきではあるが社会への説明を試みている。そしてその説明のなかで、小山田はかつての自分について、軽率、無責任、と記している。

 

いじめを複数の雑誌メディアとひとりのミュージシャンがかつて如何に取り扱い、生まれた記事が今現在に至るまでどのように読まれ報じられ、論じられてきたか。現在問われているこの問題のなかにあるひとつの課題は、いじめについての言葉はどう組み立て得るのか、その言葉は社会に向けてどのように発せられ得るのか、というものだと思う。QJの当時編集長・赤田祐一や、該当記事のライター・村上清は、自分たちはサブカルチャーの方向からそれを試みたが、そこに未熟さ・意識の低さがあったことを反省している、という意を含む謝罪文を発表した。小山田も赤田・村上も、かつての自分たちの語り方・方法論の間違いや限界を認めることになった。

 

ROJ山崎洋一郎も当時の記事について「その時のインタビュアーは私であり編集長も担当しておりました。そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います」と語っている。ただ、なぜ小山田インタビュー内でいじめの話をピックアップし、ああした形で演出・改変したのかということについては、彼はまだ語っていない。ROJはあのときどのように言葉を組み立てようとしていたのか。雑誌として何を提示したかったのか。山崎にはそこを語ってほしい。サブカルチャー・メディアとしてのロッキング・オンにとって、それは本当に重要な問題だと思う。

 

ある種のサブカルチャー雑誌のような場で組み立てられ発せられた「言葉」に、ぼくは育てられてきた。もちろんそれは、コーネリアスやかつてのROJ、QJのような類のサブカルチャーに関心を持ってこなかった人にしてみれば知っちゃこっちゃない話だ。そういう人々が、こんなタイプのサブカルチャー的な場や「言葉」なんて必要ない、消えてしまえ、と言う場合、それはひとつの道理だなとは思う。だが少なくとも、ぼくはそう言う気はないし、そう言う権利もない。社会に対して何かを説明するときの自分の「言葉」の方法論自体に、諸々のサブカルチャーから学んだものが入り込んでいる。この文章自体もそうだ。今回のような問題は、自分の使う「言葉」の幹のなかにあるものだと思っている。そしてそのことは、ではぼく自身はいじめについてどう語り得るだろうか?という問いにも繋がる。

 

かつてのサブカルチャーで育った自分が、今後社会に向けてどのように「言葉」を語るか。社会に向けて自分自身の「言葉」を語ることは、ミュージシャンや編集者や、作家や政治家や、そういった類の肩書きを持つ人々だけがやるべき作業ではない。その作業がさまざまな人々に広く開かれた社会こそが、風通しの良さを保ち得る。小山田が今やり直そうとしていることのなかにも、そうした作業が含まれているはずだ。彼や赤田・村上らが認めたような間違い・限界を内包したサブカルチャーで育った自分も、ではこれからは何を如何に語るのか、語れるのかを考え、自分なりに実行するしかない。自分の幹になったものは、即座に斬り落とすことではなく、時間をかけてそれを見つめ直すことでしか、捉え返しが不可能であるように思う。