コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

テレビの「同一性」、そして「生態学的秩序」との距離について③

からの続き)

 

例えば『あちこちオードリー』のような番組では、芸人やタレントが自らの仕事における「本音」を語り合う体裁を通して、このような「生態学的秩序」の(いまさらの)再強化が企図されていると言える。この番組で語られる「本音」が、「悪無限の「同一性」に加担する「ストーリー」」を破壊するようなことは決してなく、それはむしろ安全な物語の再生産に強く貢献している。TV的「同一性」が現代的「剥き出し」性に対抗するためのとりあえずの模範解答がここにはあり、そしてその解答の仕方は、テレビの「同一性」の内部に潜り込みたがるような昨今の批評とも結託している。

 

またM-1に代表される大型お笑い賞レース番組においても、(「テレビの黄金時代」的な意味での)「芸」への回帰がそこで実現していたわけではないだろう。そこで構築されていったのは、「「素」のキャラクターの面白さを一つの「芸」のように売りに」するタレントたちが織りなす「秩序」のなかで、逆に芸人たちが「芸」を「素」のキャラクターの面白さにおける強力な一要素として逆流させるためのシステム機構だったはずだ。視聴者・お笑いファンによるSNS等でのコミュニケーション消費行為も含め、演芸賞レース番組は芸人たちのキャラクター性増幅や物語性強化の、いま現在最も効果的なツールのひとつになっている。そうして育まれたキャラクターや物語は、成立し難くなっているTV的「同一性」の維持と再強化に結果的に貢献する(「「素」のキャラクターの面白さを一つの「芸」のように売りに」するタレント程度では、乱立する「剥き出し」性にはもはや対抗できない)。テレビの「同一性」が失われていく時代にそれでもそれを確保するための大衆動員装置が、そこには成立している。

 

M-1の企画者である島田紳助も、ビートたけしと同じく、テレビの「生態学的秩序」と自らとの間にある距離を測ることに非常に長けていた。しかし阿部が言ったように、たけしが「悪無限の「同一性」に加担する「ストーリー」をテレビが捏造する手助けを、彼は自ら行おうとは決してしな」かったとするなら、対照的に紳助は、そのような「ストーリー」の捏造こそに邁進した芸人だったはずだ。たけしのなかにあったニヒリズムのようなものは紳助のなかにはもちろんまったくなく、彼は「秩序」そのものの意味や価値(つまり、「芸能界」という世界の価値)を疑うことのない、根底の部分では素朴なプレイヤーだったと言えるだろう。そういう水位で疑問を持つことがなかったからこそ、「M-1」的なものと「ヘキサゴン」的なものが、紳助のなかではスムーズに両立していたのではないか。そして先述したように、そうした「同一性」や「秩序」の不毛に対する疑いの無い心性は、ある種の場においていよいよ蔓延しているように思える。

 

(おわり)