コメカブログ

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空想は重力を打ち消す ー熊倉献『春と盆暗』感想ー

言うまでもないことだけど、現実は現実でしかない。人は誰もが、目の前にある「いま・ここ」を生きることしかできない。ただ幸か不幸か私たちは人間であるために、目の前の現実に空想を重ね合わせたり、もしくは現実から離れて空想の彼方に心を飛ばしてしまったりすることがある。世界から逃げるためだったり、世界を捉え直すためだったり、様々な理由で人は空想の力を使う。

 

熊倉献『春と盆暗』に収められた四つの物語には、現実と空想が重なる瞬間が描かれている。私たちの誰もが逃れることのできない「いま・ここ」と、空想によって生み出された風景とが重ね合わされることによって、とりたてて特異な出来事が起きるわけでもない本作の各物語たちは奇妙な味わいを帯びる。現実と空想がまるで等価に捉えられているかのような世界観によって、「いま・ここ」の重力が解除されていくような感触が、この作品にはある。

 

更に特徴的なのは、作中の登場人物たちは皆、現実に重ねられた空想のなかにおいても出会い、コミュニケーションを交わすということだ。単行本冒頭に収められた「月面と眼窩」に登場するサヤマさんは、現実に苛立つたびにやたらと「手をグーパー」して、空想のなかの月面で道路標識を投げる。アルバイト先で彼女に出会ったゴトウくんは、「月面が針山になるとアレなので」=サヤマさんの現実への違和感が臨界を超えてしまうことを心配して、「どうにかしなくちゃ」と思い悩む。ふたりが生きる現実は空想の月面とシームレスに繋がっており、そこでこそサヤマさんとゴトウくんは出会う。バイト先だけでなく月面でも出会えたからこそ(そのコマで、商店街の風景に空想の月面が重なり、ふたりは共にそこに降り立つ)、ふたりは互いに交感し、ゴトウくんの片思いで始まった恋はその形を変えていく。

 

他の三つの物語においても、人々は空想のなかにひとりで引きこもることはない。みんな水死体になってしまう水中都市が、高校球児で活気づく仙人掌が、粉砂糖による粉塵爆発で荒野になった街が、現実世界を生きる登場人物たちの視界に重なり、彼らはそれを共有する。空想の共有を通して互いが抱える何かに触れることで、現実における関係性に変化が訪れるのだ。

 

そのなかでも、「仙人掌使いの弟子」には特に不思議な感触がある。この物語は他三作と若干構図が異なっており、さわさんという女性と、彼女に対して憧れにも似た恋心を抱くススムくんというふたりのお話なのだが、ここにもうひとり矢野くんというキャラクターが登場する。矢野くんはクラスでイジメにあっており、ススムくんはそれを止めたいのだが、どうしたらいいのかわからない。しかしさわさんが空想の赴くままに語っていたあるウンチクを記憶していたことで、ススムくんは偶然に矢野くんを救うことになり、ふたりは友人になる。

 

他三作で起きる関係性の変化とは具体的には男女間の恋愛の進展なのだが、「仙人掌使いの弟子」においては、さわさんがホラのように広げまくる空想が、ススムくんの、そして矢野くんの現実における日常を、恋愛とは違う位相においても変えていくのである。そこには、例えばイジメに象徴されるような「いま・ここ」の閉塞を、空想の世界を共有することによって解除していくような、不思議な爽やかさがある。さわさんの空想からススムくんが受け取ったものが、ススムくんの現実だけでなく、矢野くんの現実をも変えていくような豊かな可能性が、そこには描かれている。

 

私たちが捕らえられた現実に空想を重ねることで、その重力を打ち消し、互いにそこでコミュニケーションを試み、出会い直すこと。「いま・ここ」に捕えられた私たちは、そうやって恋愛や、友情や、そしてそれらとはまた異なる様々なコミュニケーションの可能性に、飛び込んでいくことができる。さわさんが周囲からは(愉快な)ホラ吹きだと思われているように、空想の世界を広げる人を世間は奇異の目で眺めることも多い。でもこの『春と盆暗』が描いたように、一見単なるホラ話にしか見えないような空想こそが、私たちの現実における閉塞を救い、人間同士を繋ぎ直す、とても大切な鍵なのである。