コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

郊外の私

もう10年以上東京都内に暮らしている。大学を出て社会人になってから、最初の8年ほどは池袋周辺を転々とし、5年ほど前からはずっと西東京にいる。もともと自分は埼玉の浦和のあたりで育ったこともあって、池袋や西東京のなんというか地味な雰囲気はとても居心地がいい。特に西東京の風景というのは完全に郊外の景色なので、結局自分が落ち着けるのはこういう場所なんだなあ、と思ったりしている。

 

ぼくは生まれてから4~5歳ごろまで、目黒駅と祐天寺駅のあいだのあたりにあった、父親の会社の社宅に住んでいた。関西出身者の両親は、ぼくが生まれるのと同時に父の転勤で東京に引っ越し、地縁の無い環境のなかで子育てを始めた。物珍しさで、週末にはぼくを連れて東京の各所を車で見て回ったりしていたらしい。

 

そしてその後、家族で埼玉の浦和に引っ越すことになる。ぼくは1984年生まれなので、たぶん88年頃のことになるはず。浦和にも別に地縁があったわけではないから、父と母は、ベッドタウンとしての利便性や諸条件を考慮して土地を選んだだけだったのだろう。それ以来社会人になるまでずっとそこで暮らしていたので、実質的にはぼくは埼玉出身の人間である。

 

しかしこの東京から埼玉へ、という移動の経験は、幼児期の自分にとって非常にショックなものだった。もちろん子どもだから何が何やらわかっていなかったのだが、埼玉で暮らすようになったときに「ここには何もない!街がスカスカだ!」と思ったことをものすごくよく憶えている。幼い自分にもわかるぐらいに、目黒や祐天寺、そして親に連れられて回った80年代半ばの東京は、凝縮性・濃度が高い空間に見えたのだろう。人や店やいろいろなものが濃密に集中していた東京と比べて、埼玉の郊外的な風景はいかにも空っぽであるように見えた。

 

ちなみに余談だが、そういう経験からぼくは「1980年代の東京」に対して子供の頃から妙なノスタルジーを抱くようになり、思春期に入るころには当時の文化について調べたり、雑誌やレコードの収集に熱中するようになる。

 

ただ、そもそも地縁も何も持たずに、父の勤め先の都合で移動していただけの核家族であった我が家にとっては、埼玉の郊外=土地の関係性や歴史が希薄な場所の方が、確実に生きていきやすかった。あとから母に聞いたことだが、東京は生活するには楽しい場所だったけれども、やはりそこに代々住んでいる人々と、一時的な移住者に過ぎない自分たちとの違いを意識する場面は多かったという。ぼくは子どもだったからそのへんのことは当時何もわからなかったが、それでも浦和のあたりがいろんな意味で地域的な関係性が希薄な土地であることぐらいは、育っていくなかでだんだん理解していった。そしてそういう根無し草的な感覚は、自分の人格形成にも深く影響を及ぼしていると思う。

 

東京というのは今も昔もぼくにとって、濃度が高く歴史や関係性が複雑に折り重なった都市としてある。ぼくはそういう東京に触れるのが大好きだけど、でも自分はその重層性のなかには入れないし、入りたいとも思わない。郊外的な空間のなかで、根無し草的にスタンドアローンで生きることが自分にとっては最もしっくりくる。あくまでその感覚を前提に、その上で何がしかの共同性や公共性にコミットできないか、というのが自分の関心であり、だからこそ国分寺で古本屋の実店舗を始めた。濃度の高い「中心」としての東京はいまでも多くの人を惹きつけているが、その「周縁」部分の空っぽさの方にこそ、ぼくは興味がある。

 

人が地縁や歴史から解放され、「ひとり」になれる、ということに、やはり希望を見たいのだ。もちろん相互扶助的な機能を持つ共同体のなにがしかの形での形成や、「ひとり」で生きるためのセーフティネットの構築は重要な課題である。しかし自分はやはり根本的に、空白のなかを「ひとり」で生きることを、ポジティブに捉えたいと思っている。そういう「ひとり」同士として出会い、互いの「ひとり」さを尊重し合えるような関係性をつくりたい。

 

そして、いま現在のコロナ禍において、東京各所の景色はどんどん変わりつつある。その変化には様々な位相があるけれども、「資本力を持つ者だけが生き残る」という事実の加速が、そこにはひとつ確実にある。市民生活の実相に向かい合おうとしない小池都政や菅政権に対して抗議しつつも、しかしそういう過酷で具体的な現状を私たちはそれぞれ日々乗り切るしかない。今回書いたようなことを考えながら、ぼくは毎日東京の西側で暮らしている。