コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

テレビの「同一性」、そして「生態学的秩序」との距離について②

からの続き)

「だからもはや人びとがテレビに対して求めているのは、タレントという虚構の人物たちが活動するフィクションを楽しむということではないらしいのだ。素人たちの剥き出しの「生」がただテレビで中継されること。どうやらそのような身も蓋もない現実を見ることを視聴者たちは求めはじめているらしい。それはインターネットのライヴカメラで多くの素人が自分のプライバシーを世界中に配信していることからも分かるだろう。多くの人びとはただの剥き出しの生活を見られたがっているし、見たがってもいる。だとしたら、ナンシー関のような(そしてむろん小林信彦のような)フィクションを楽しむテレビ批評はもはや「ストライクゾーン」を外れていると言わざるを得まい。むろん彼女はその「ズレ」に気づいていた。しかし彼女はフィクションとしての、娯楽としてのテレビを守るために、最後までその「ズレ」に気づかない振りをして、テレビ世界の生態学的秩序がそこにあるかのように批評し続けた」

 

長谷正人「テレビ世界の生態学的観察者 ナンシー関の倫理をめぐって」(2003)

 

2003年時点で長谷正人が「多くの人びとはただの剥き出しの生活を見られたがっているし、見たがってもいる」と指摘したような状況は、基本的にはその後もどんどん拡張・増幅されていったと言える。長谷によればナンシー関は、そうした状況が生まれつつあるなかでそれでも「テレビ世界の生態学的秩序がそこにあるかのように批評し続けた」批評家だった、ということになる。「テレビ世界の生態学的秩序」とはつまり、「テレビタレントたちが、番組のなかで自然体でおしゃべりをしたり料理を食べたりしつつも、そこで見せる「素」のキャラクターの面白さを一つの「芸」のように売りにし、それを基にしてテレビの棲み分け世界のなかで安定した地位を確保して生き延びようとする」なかで織りなされる秩序のことだ。ある時期以降(恐らく、小林信彦が言ったところの「テレビの黄金時代」が終わって以降)の日本のTV的な「同一性」は、このような「生態学的秩序」によっても維持されていたと言えるだろう。

 

そしてそうしたテレビ的な「同一性」や「秩序」が、さまざまな形での「剥き出し」性によって解体されつつある。現代の(しょぼい)破壊者たちもまた、メディア戦において「剥き出し」性を積極的に利用する。

 

(③に続く)