コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

「それは戦争ではない」逃げ恥SP感想

逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』を観た(鑑賞時のツイートツリーはここからhttps://twitter.com/comecaML/status/1346091597172129792?s=20)。大人気だった連ドラ版は、主人公であるみくり・平匡が労働契約として偽装結婚し、雇用主・労働者という関係での「夫婦生活」を送るなかで、徐々にふたりが本当に恋愛感情を抱き合うようになっていく…という筋書きの物語だった。(恋愛も含めた)コミュニケーションにおける諸々を、「雇用契約としての結婚生活」というギミックを通して対象化・再検討していく仕掛け。特に終盤での平匡の(自分がリストラされたので、結婚してしまった方が経済的にも合理的である、という意に受け取れる形での)プロポーズに対し、みくりが「それは好きの搾取です」=恋愛感情があれば主婦の無償労働は当然であるという考え方は不当搾取にあたると指摘した展開は、女性差別が内在された社会構造そのものを対象化し批判するものだった。

 

しかし今回のスペシャル版においては、そういった再検討・言及が上手く機能していなかったように思う。あまりにも多くのアクションや事柄を一気に扱ってしまったことで物語構成が「(それそのものとしては概ね正しい)結論」のショーケース的羅列に陥っており、コミュニケーションのプロセスにおける屈託や葛藤が簡略化され過ぎている(余談だが、野木亜紀子という脚本家のこの手の「手際の良さ」についてぼくは以前から関心がある)。

連ドラ版で平匡が自らのプロポーズの在り方を反省し、これまでのような雇用関係でも旧態依然とした夫婦関係でもないふたりの在り方=「共同経営」を提案するに至る姿を説得的に描けていたのは、それまでの彼の成長プロセスの描写があったからこそだ。日常生活における日々のコミュニケーションのなかで、相手が自分を変え、そして自分が相手を変えること、つまり互いにコミットメントしていくことへの脅えを彼が少しずつ乗り越えていく描写があったからこそ、視聴者はあの提案に真摯さを感じることができた。今回は二時間特番という時間的制約はもちろんあったにせよ、劇中人物たちがみなコミットメント行為に対して妙に屈託が無く、「結論」から逆算されたような簡易なコミュニケーションが連続する劇作になってしまっていた。

 

そしてぼくが更に違和感を覚えたのは、終盤のコロナ禍状況の描写において、明らかに「戦時下」的なイメージが持ち出されている点だ。みくりの「疎開」(劇中この言葉が出る)、戦場で戦うかのように仕事を続ける平匡の姿、そこからの緊急事態宣言。言うまでもないことだが、いま現在日本社会が経験しているこの状況は「戦時下」ではない。感染症が蔓延してはいるが戦争は起きていないし、緊急事態宣言が出されてはいるが戒厳令が敷かれているわけでもない。しかし、危険と隣り合わせで働き続ける平匡と、不安のなか「疎開」先で子をあやすみくりの姿は、あまりにも「前線」と「銃後の暮らし」の構図に似通り過ぎてはいないか。国家による国民生活・私権への介入可能性も高まっている現状において、本作のこういったコロナ禍描写の手つきは、かなり危ういものであるように思う。

 

あまつさえ、どうやら「戦時下」を潜り抜けたらしいラストシーンにおいて、どこか不安定だった以前とは違い、堂々とした父親としての落ち着きを平匡は見せる。この状況は彼にとって、ある種の通過儀礼として機能してしまったらしいのだ。「逃げるは恥だが役に立つ」、恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切だ、という意味であるらしいハンガリーのことわざをタイトルに冠している物語のなかで、平匡は育休も返上して逃げずに「前線」に立ち、大状況での経験を通して「父」になってしまう。連ドラ版では日常という小状況のなかで必死にもがき少しずつ成長していた彼は、「戦時下」的大状況のなかで急激に成熟してしまうのだ。

ぼくは願わくば平匡には、平凡な日常におけるコミットメントの応酬によって、そしてそのなかにある暴力について常に立ち止まり考えることを通して、「父」になってもらいたかった。疎開先で佇むみくりや子を遠くから眼差し涙を流す彼は、触れることができないこと=ハグできないことの不可能性を通して愛を確認してしまっている。ハグ行為=コミュニケーションそのものではなく、その「不在」によって確認される愛の形はあまりにドラマチック過ぎて、連ドラ版が日常の積み重ねのなかで少しずつ愛を確認していったこととのズレを、改めて感じざるを得なかった。コロナ禍においては、みくりと平匡は、そして私たちは、このズレを生きるしかないのだろうか?

 

正直に言うと、ぼくはやはりみくりと平匡には、この大状況下においても「不在」ではなく、コミュニケーションそのものの具体性にこだわってもらいたかった。コロナ禍に見舞われようがなんだろうが、ときにふたり一緒に対等に力を合わせ、ときにふたり一緒にだましだまし状況をなんとか乗り切りながら、互いにコミットメントを繰り返す「共同経営」のなかから、この社会の理不尽に抗いもがく術を見出してもらいたかった(コロナ禍において社会の理不尽や不正は更に露骨に露呈しつつある)。大状況のなかではあらゆることが今は仕方ないのだ、という思考の内面化に対して、アイデアやユーモアで対抗してほしかった。

民放局の人気ドラマという制約のなかで諸々の社会問題について言及する勇気と努力には最大限の敬意を払いたい。しかしこのSP版の小状況におけるコミュニケーション描写の簡略化、そして「戦時下」的大状況を屈託無く描いてしまう不用意さは、自分にはやはり肯定し難い。