コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

「2010年代」の終わり

「ディケイド単位の変化は、例えば1980年代であれば’80年からではなくて、’83年あたりから顕在化してくる」みたいなことを言っていたのは誰だったっけ?忘れてしまった。でもとりあえず、そういう大きな流れの節目みたいなものを最近かなり感じる。ディケイド=●●年代、なんて恣意的な枠組みでしかないわけだけど、しかしそれを社会で共有することになる以上、その恣意的な枠組みはぼくたちの思考になにがしか影響を与えてしまう。

Twitterイーロン・マスクに買収されて、そのことでウェブ世界は割と盛り上がっている。(ぼくもそのクラスタのなかにいるつもりの)リベラル左派からは、Twitterは無法なリバタリアンや極右たちに占拠された最悪な言説空間になる、もうおしまいだ、みたいな感じの反応が多く出ている。ただよく言われているように、以前からこのSNSの運営は、ヘイトスピーチや人権問題に対して無責任で酷い対応しかしていなかった。マスクの買収前からあそこはずっと最悪な場なのであって、今後更に最悪さを増していくだろう、という話。

ただ、Twitterは個人でなにかを発信したり表現したりしたい、という人にとってはやっぱり便利なツールであった/ある……というか、実際問題このSNSを抜きにして情報発信・共有することのハードルは、この10年ですっかり上がってしまったと思う(既存のツールや回路を破壊してしまったということでもある)。人脈やツテ・コネを持たない人間がアトランダムな遭遇を得る機会をTwitterが生んでいたことは、なんだかんだ言っても事実だろう。ここ最近のアルゴリズムの変更だけでなく、マスクによる改革(?)が、そういった「2010年代」的な状況を(良くも悪くも)支えたTwitterの特質を変えていくのかもしれない。

ただどうも、こうした状況変化のなかで、Twitterは廃れるのではなくイヤな意味で社会インフラ性を(単なるいち民間企業のウェブサービスなのに)より高めていくような気もする。そう思う根拠は特に無いんだけど……。ただ、この記事 No, Elon and Jack are not “competitors.” They’re collaborating. | by Dave Troy | Oct, 2022 | Medium にある "Dorsey envisions a foundational “Twitter” protocol that anyone can implement and run. " みたいな記述を読んだりすると、どうもそういうイヤ~な未来社会像が浮かんでくる。Twitterを「降りる」こと自体が困難になるような社会像というか……。

まあとりあえず、来年2023年あたりから、「2020年代」が始まるんじゃないだろうか(もちろん半分冗談だけども)。自分もTwitterはとりあえず使い続けるけど、一応Mastodonのアカウント(https://mstdn.jp/@comecaML)も新しく作った。今度こそはブログもちょこちょこと更新したい……。更に管理が徹底されていく情報社会のなかで、個人としてどうにかインディペンデントな生き方や表現をやっていくためにどうしたらいいかを、「2020年代」においても考えていくことになるだろうな、と思う。