コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

否定しがたい「ヌルさ」 ー映画『花束みたいな恋をした』感想ー

『花束みたいな恋をした』を観た。評判を聞く限り、現代社会批評っぽい内容(しかもかなり批判的な)なのかな~と思ってたんだけど、鑑賞してみて個人的に抱いた印象はそれとはちょっと違った。

そしてなんというか、主人公である麦と絹はあらゆる意味で「ヌルい」ふたりなんだけど、ぼくはこの「ヌルさ」を否定したくない……というかできないし、この作品そのものも、そういう「ヌルさ」を擁護している映画であるような気がした。

 

この作品の構造は非常に単純で、

 1.カルチャーに傾倒する大学生の男女、麦と絹が偶然に出会って意気投合し、

 2.趣味を共有できる喜びのままに恋愛関係を結び、同棲し、

 3.しかし麦がイラストレーターの夢に挫折し、就職したことからふたりにスレ違いが生じ、

 4.ふたりは別れ、そして今はそれぞれに新しい別の恋人と過ごしている

という展開を辿る。

この1と2の場面において、既に多くの人が言及しているように、麦と絹を繋ぐ諸々の作品名・作家名=カルチャーは「ベタな世間とは違う自分」を確保するための記号としてしか劇中で機能しない。基本的にそのほとんどが入れ替え可能であり、言及される個々の作品・作家の具体的な性質は、映画の物語構造・展開にほぼ作用していない。

 

麦と絹は「好きなもの」を精神的な双子のように共有できる喜びに夢中になるが、それらの作品や作家の内実について語り合ったり、意見を戦わせたりする様子が劇中で描かれることはない。ふたりの関係のなかには他者性が無い。

彼らはアクセサリーの様に「好きなもの」を身にまとい、共有し、同棲する部屋をそれらで埋め尽くす。この光景を、文化表現の本質(とははたして何か、という問題もあるのだが)を摑まえられずに記号消費に明け暮れているだけだと笑うことは容易いし、事実ふたりはそういう表層的な消費行為から先に進むことのできない凡庸な人間として描かれる。

そして3の段階において麦は「好きなもの」を身にまとう生活から脱落し……というか、脱落することこそが「社会化」であると考えるようになり、絹との関係性に亀裂が入る。4に至ってふたりは、自分たちの関係性は、「好きなもの」を共有することでしか、それに埋め尽くされた部屋を共有することでしか繋ぎ留められない類のものだったことを自覚したと言える。「文化」に対しても「社会」に対しても、そしてお互いに対しても「ヌルい」向き合い方しかできていなかったふたりの時間は、人生における猶予期間としてしか機能し得ないものであり、「夫婦」「家族」といった関係性への発展可能性がないものであることが示される。

 

つまり本作は古典的な青春期における挫折の物語であるわけだが、肝心なのはその「青春」の時間、つまり麦と絹の「ヌルい」モラトリアムの時間を、どう捉えるかだと思う。「ふたりには文化に対する勉強や努力、執着が足りなかった」「ふたりには社会の厳しさやリアリティに対する自覚、それに対峙する強さが足りなかった」といった批判的な受け止め方が妥当ではあるだろう。そしてそれらの視線は、ほかならぬ麦・絹自身が劇中の展開のなかで内面化してしまった視線でもある。前者のそれを絹は麦に(就職したことでイラストを描かなくなる麦に絹は失望する)、後者のそれを麦は絹に向ける(転職についての絹の甘い見通しを麦は非難する)。

しかし先述したように、ぼくはふたりのこの「ヌルさ」・凡庸さを否定できない。ありがちで、才能も無くて、自意識過剰で取るに足らないふたりの「ヌルさ」を、ぼくは否定することができない。「文化」に対しても「社会」に対しても「ヌルい」ふたりの姿は確実に戦後日本における大衆像の一側面であり、そして自分自身も少なからずそのように生きてきてしまったと感じるからだ。卓越化することなく、文化に対する「消費者」という構図のなかでつまらない自意識を持て余す。異質な他者との対話や軋轢に耐えられず、互いの自意識を慰めるように似た者同士で寄り合う。この不毛な在り方はしかし、戦後日本社会が相応に達成した「平和」の一部分としてあったものでもあり、そしてそれは今や政治的・経済的な環境変化により失われつつあるものでもある(ただもちろん、そういう戦後的「平和」の裏側には沢山の欺瞞や、国内外の存在に対する抑圧行為が伴っていたわけだが)。そういう不毛を、「完全に無駄な時間だった」とは言いたくない気持ちが自分にはある。その不毛が沢山の人に生きられたことを「なかったこと」にはせずに、それを前提にしてこれからの時代が生きられていくべきなのではないかと思っている。そのことはぼくにとってまったく他人事ではなく、当事者的な問題としてある。なので、自分にはふたりを否定したり断罪したりする資格が無いように感じるのだ。これまでの「ヌルさ」に自覚的になった上で(反省や償いもそこでは必要になる)、これからをどう生きていくかを考えることしか自分にはできない。

 

物語終盤、ファミリーレストランで語り合うふたりが、変わってしまった自分たちに気がついて慟哭する場面よりも、交際を終えてから共に過ごした最後の三ヶ月の描写の方に、ぼくは引き込まれた。恋愛関係を終えて、麦と絹は古い友人同士のように、「好きなもの/好きだったもの」に囲まれた部屋のなかで「終わりある日々」を共に過ごす。そこでは出会った頃のように笑顔が戻る。甘くて「ヌルい」モラトリアムの時間に終止符を打ち、相手を自らの写し絵のように捉えることを放棄したふたりは、喪失の痛みの後で再び生き直し始める。このシーンに至って本作はようやく、「異質な他者との共存」の光景を描くことになる。部屋に溢れる「好きなもの」たちは、もはや世間と自分たちを分け隔てるための記号としてあるわけではない。それらは他人同士であるふたりの周囲に、ただそれそのものとしてあるだけだ。別れた後に麦も絹も恐らくは「自分とは違うタイプ」の恋人と付き合っているのも、同質的な関係性に依存することからふたりがそれぞれ脱したからだろう。ファミレスでウザ絡みしてきたおじさんからの受け売りレコーディング講釈を異口同音に語る麦と絹は(ふたりとも、それぞれのパートナーからは気の無い返事しか得られない。双子のような共鳴はそこにはない)、どちらもつまらない大人になりつつある。しかしあの部屋での愛すべき「ヌルい」時間があったからこそ、彼らはつまらない大人への道を正しく歩み始めることができたのではないか。ふたりの凡庸な(とりあえずの)着地点・現在地を描いているという点をもって、この映画はやはり、あの「ヌルい」5年間を精一杯擁護しているようにぼくには思えるのだ。

 

ラストシーン、Googleストリートビューに映ったあの頃のふたりの姿を、麦はかつて自分がそれを体験したときのように周囲に見せびらかしたりはしないだろう。その画像は彼にとって、他人の承認を得るための記号ではなく、入れ替え不可能で大切な、かけがえのない記憶そのものであるはずだから。