コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

大塚英志「感情化する社会」


大塚英志が、2004年の「更新期の文学」以来久々に、「文芸批評」的な単著を出した。「感情化する社会」と銘打たれた本書で大塚が語るのは、コンピュータやインターネットがアーキテクチャとしてインフラ化した現代において、社会から徐々に「理性」が喪失されつつあり、従来の文学や批評はそういった状況の進展に対してもはや機能し得ないのではないか、という印象と予感である。アダム・スミスが言うところの「公平な観察者」が個々人の内面から喪失され、個々の「感情」が互いにただだらしなく「共感」し合うことで生み出される、巨大な「感情」の塊。社会が社会として機能せず、そのような「感情」の塊と化してしまう事態を指して、「感情化する社会」というイメージは持ち出されている。

例えば大塚はかねてより、読み手が文学を「解釈」することを放棄し、書き手も多義的な「解釈」を呼び込まない「物語」作成に特化していく事態を、「文学のサプリメント化」という言葉で指摘していた。読み手が積極的に読み解き「解釈」する必要のある複雑な「物語」が忌避され、「泣ける」「感動する」というようなシンプルな「刺激」を与える物語、つまり、効率良く「感情」を変化させるサプリメントとして機能する文学が多くの人々に求められる状況の到来。それが、彼が指し示そうとした事態だったと言える。

サプリメント化した文学が持ち得ないのは、それこそ先述した「公平な観察者」としての機能だ。物事を「解釈」し、そこにある多義性や妥当な適切性を判断していく為の手段や制度としての機能を、「感情」に対する刺激物と化した文学は持ち得ない。だがそもそも、「公平な観察者」としての視点を個々が内面化することで生まれ得る「公共性」の構築をサボタージュし、ウェブやグローバル経済というプラットフォームに(それらへの懐疑抜きに)だらしなく依存して生きる私たちには、刺激物として有効に機能する以上の役割を持つ表現が必要とされているのだろうか?


恐らくそんなものは必要とされておらず、そして、そういうものが必要とされない社会に対する(半ば諦観にも似た)苛立ちが、大塚に本書を書かせていると思う。システムやプラットフォームに環境管理された人々が、快適に己の「感情」を発露し「共感」の輪を広げていく状況に対する嫌悪が、大塚の文章からは(いつものことながら)強く感じられる。



かつて大塚は、90年代に入っても「消費社会は終わらない」と嘯き、「中間管理職になる覚悟」、つまり消費社会における表層的な「記号」の水準ではなく、深層における「構造」の水準の管理に関わっていくことの重要性を謳っていた。消費社会下において、瞬間芸しか持たない一発屋で終わらずに生き延びていくには、環境管理に携われるだけの「構造」の把握力が必要だ、と言っていた訳だ。
だがある時期以降の大塚は、そういうマーケティング的な環境管理志向から降り、近代的な「公共性」の構築の必要性を主張するようになる。例えば、社会的責任を忌避しながらウェブ上のプラットフォームを運営するドワンゴに対して、社会の「公共性」を担保するメディアとしての役割責任を果たせ、と批判を加える近年の彼の発言は、そういう態度に基づいている。政治的に無色透明なプラットフォームとしてウェブメディアが振る舞うことの「嘘」に、近代主義的な立場から彼は攻撃を加えてきたのだ。

だが本書において、大塚は明らかに”疲れている”。「公共性」に支えられた社会の構築の必要性をどれだけ訴えても、快適な環境下で「感情」を貪ることに執心する人々にはその言葉が届かないことに、彼は明らかに疲れている。
それでもまあ、宮台真司と「愚民社会」なんてタイトルで対談本を出してしまった時よりは、ヤケクソ感は薄れているけれど。



本稿冒頭に書いたように、「感情」や「刺激」の共有に突き進む日本社会に対して、その外側に立とうとする批評的な言語の失効を大塚は認識しているし、たぶんその認識は正しい。彼は本書においても「近代」の徹底・やり直しの必要性を語る従来の姿勢を基本的に崩していないが、そのことの実現不可能性への諦観はこれまで以上に滲み出ている。

ウェブ上のプラットフォームやスクールカースト、オタク業界のメディアミックス的エコシステム等の「構造」に疑問を抱かず、ましてやそれに対して反撃を加えようともせず、むしろその「制度」の中で「感情」を慰撫しながら快適に生きようとする人々。そういう人々や状況に対して大塚は苛立ち、そのことを「批評」しようとするが、もはや既に状況は「手遅れ」なのではないか、という感覚が、本書にはじっとりと流れている。


だがかろうじて、80年代以降繰り返されてきた「近代」への再帰的試み(インターネット上で「近代文学」的なもののやり直しが進行している、という大塚の見立てもここに含まれる)の過剰な反復がいつか臨界点に達し、何かこれまでとは別の段階に突入するのではないかという、希望とも何とも言い難い(かなり論理性を欠いた)直観に、大塚は辿り着く。人工知能が深層学習を始め、自分自身を再帰的に書き換え続けていく中でシンギュラリティ=人間の能力や想像力を追い抜いた地点に到達するという一つの仮説から、大塚はそのイメージを得たようだ。

現時点での大塚の「批評」自体も、再帰的ループの一部に過ぎないのかもしれず、そしてそのことそのものが一つの過渡期の中の現象としてあるのかもしれない、という認識が語られるのである。この再帰的ループの果てに、私たちが現時点でイメージできる「想像」を超えるものが発生するのでは・・・という「予感」を、大塚は"とりあえず口にしている"。


大塚の文章はいつも直観に頼り過ぎているところがあるが、同時にいつもその直観が妙な閃きを孕んでいる。「近代」を達成しようとする試みの不可能性に苛まれる私たち(それは「リベラル」を志向する人々に特に強く共有されているはずだ)にとっての、オルタナティブな世界観へのヒントが、ここにはあるようにぼくには思える。