コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

奥田愛基「変える」


自分の気持ちや実感を伝える言葉では、個人的なリアリティ、つまり「近い場所」を表現することはできるけれど、国家とか世界とか、「遠い場所」について語ることは難しい。対して、学問や思想の難解な言葉では、「遠い場所」の姿を捉えることはできるけれど、人間の小さなリアリティや気持ちを語ることは難しくなる。



これは古今東西の社会の中で様々な人々により葛藤されてきたジレンマだと思うし、現代日本においても、この問題は常に人々に付き纏っていると思う。



ぼくたちは「近い場所」について語ろうとすれば全体を見失うし、「遠い場所」について語ろうとすれば個人を見失う。



でも、奥田愛基はこの「変える」の中で、その二つのものの乖離を埋め合わせ、それらを同時に語れる言葉と物語を、模索しているんだと思う。





奥田はこの本で、自分の人生の軌跡を物語として描いた。一度は死の間際にまで近づき、そしてまた帰ってくるという、物語のある種の定型に非常に忠実な形で、「お話」を構成した。つまり、古典的なイニシエーションストーリーの構造を使って、自分自身の人生を描いたのだ。



成長物語の形で、乖離していた「近い場所」と「遠い場所」の接合が試みられるという構造。その構造から誰もが連想するのは、「セカイ系」と呼ばれた一群の作品達だろう。実際ネット上でも、彼が持つ資質とセカイ系的な想像力との類似を指摘する声が聞かれる。


セカイ系と呼ばれる作品群は、「ぼくの内面」もしくは「ぼくときみの関係」という「近い場所」と、「世界の命運」という壮大な「遠い場所」が、一足飛びに接続される物語構造を持つ傾向にある。近さと遠さの中間項、つまり「社会」という単位が重要視されることが、少ない。



セカイ系的な想像力が注目される状況の先鞭をつけたと言えるアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」旧シリーズは、主人公の少年が世界の存亡の鍵を握らされながらも、それに向かい合うことから逃げて「きみとぼく」の関係性に退却し、その上で「気持ち悪い」という拒絶を「きみ」から受ける形で、その物語の幕を閉じた。
「近い場所」にも「遠い場所」にも着地しない/できない物語だった訳だ。そこでは主人公碇シンジを受け入れる「社会」は用意されず、イニシエーションストーリーは破綻する。




奥田がやったこと、そして今やっていることは早い話が、この「近い場所」と「遠い場所」を再接合する場所を作ること、つまり「社会」の生成行為である。


彼は思春期において、「近い場所」の構築に失敗している。それこそ、その失敗によって、死の間際にまで追い詰められている。そして彼が「自分もネトウヨになってもおかしくなかった」と語るのは、そういう「近い場所」の構築の失敗から、国家語り、それもネトウヨ的な妄想的で暴力的な国家語りで、「遠い場所」に自分の自意識を逃げ込ませることを選ぶ可能性もあったことを意味している。



だが彼は結果的に、「近い場所」の中で自死することも、「遠い場所」に逃げ、巨大なものに自身を一体化させることも、選択しなかった。



イニシエーションストーリーは、「帰る場所」を必要とする。青年は一度共同体を出て死に近づき、通過儀礼を終えて再び共同体に「帰還」し、「大人」として認められる。



だが、わたしたちにとっての「帰る場所」とはどこか?
3.11以降、その破綻がはっきりと可視化されてしまった日本社会において、わたしたちは通過儀礼を終えてどこに帰ればいいのか?こんなに壊れた社会に「帰還」することに、意味があるのか?



わたしたちはそういう葛藤の中で、「帰還」することから逃避して引きこもったり、国家というものを妄想的に美化し、そこに「帰還」しようとしたりしてしまった。イニシエーションストーリーを放棄してしまうか、極端に安直な形でそれを生きてしまうか。ゼロか100か。




その結果、全てを放棄した「コドモ」か、全てに目を瞑った「オトナ」しかいなくなった。



だが、奥田や彼と共に動いた人々が提案したのは、まったく違うアイデアだった。




「帰る場所」が腐っていることなんか知ってる。でも、わたしたちはそこで生きていかざるを得ない。大人にだってなりたい。お金だって苦しいのに、80年代のニューアカみたいに、「逃走」し続けることなんかできない。この場所に立って生きていくしかない。


じゃあどうするか。


「帰る場所」を、「変える」。
自分たちが帰るに値すると思える場所に、「変える」。
ものすごくシンプルで当たり前で、だからこそ誰も本気でやろうとしなかったこと。




奥田は「ここではないどこか」を目指さない。「帰るべき場所」を彼は目指しているんだと思う。つまり、彼は「成熟」を目指しているんだと思う。



サブカルは、「ここではないどこか」に行ったまま、どこにも帰ってこなかった。
オタクは、「ここではないどこか」へ旅立つことを拒否し、引きこもって幻想と戯れ続けた。



旅立つこと、「帰還」すること、大人になること。




「変わる」ということ。




奥田は当初、「14歳のための政治学」のような、子どもたちに向けた政治への関わり方を開設した本を書きたいと思っていたそうだ。
だが、この「変える」という物語が生まれたことは、結果的に他のどんな形式の書籍であるよりも、これからを生きる子ども達への贈り物になったと思う。




何故か。




これは、日本で一番新しく、一番希望に満ち溢れた、「成長物語」だからだ。