コメカブログ

コメカ(TVOD/早春書店)のブログ。サブカルチャーや社会のことについて書いています。

「ちゃんと負けてみる」ってのはどうだろう?

「ちゃんと負けること」って、はたしてどういうことだろうかと最近よく考える。

 

勝ち組・負け組」という言葉が流行したのは今から15年ほど前のこと(2006年の「ユーキャン 新語・流行語大賞」にて、「勝ち組・負け組待ち組」が14位にランクインしている。「待ち組」は猪口邦子少子化男女共同参画担当大臣(当時)が、フリーターやニートなどを「挑戦せずに様子をうかがっている人」として呼びつけた言葉らしいが、個人的にはこのフレーズについてまったく記憶が無い……)。主に経済的な格差の問題が、勝ち・負けと二項対立的にフレーズ化されていたのが当時の状況だったわけだが、日本のゼロ年代前半における新自由主義の前景化をいかにも象徴するような流行語だったと言える。

 

「負け組」というフレーズは、基本的には誰もそこに自己投影したがらない、ネガティブなものだ。所得格差における具体的な数字の問題以前に、この言葉が持つどうにもイヤな感じが、「自分はそこに陥りたくない」という心情を人に抱かせる。「負け組」だけは絶対にイヤだ、そうはなりたくないという焦りと陰鬱な気持ちを、この言葉は聞く者のなかに呼び起こす。

 

だが、「負ける」ことって、はたして本当にそんなに悪いことなんだろうか?もちろんわざわざ言うまでもないが、「勝ち組・負け組」という言葉で表象されたような格差社会化は間違いなく政治・経済の水準において是正されるべき問題であり、そしてこの言葉が生まれた15年前よりも明らかに状況は悪化している。「負け組」と呼ばれるような立場に人を落とし込む制度を変えていくこと、困窮している人をサポートすること等が極めて重要である。ただ、生きていくなかで「負ける」ことを徹底的に避け続けるのって、そもそもめちゃくちゃむずかしいはずだ(だからこそセーフティネットをきちんと用意することが大切なのだ)。経済的な問題においてだけでなく、例えば自意識の水準においても、「負ける」ことを避け続け、「自分は勝ち組だ」なんて思い続ける人生って、どんなもんだろうか?

 

少し話が逸れるが、TwitterみたいなSNSにおいては、例えばサブカルチャーについての考え方の違い等、ちょっとしたことでのアカウント同士の衝突・ケンカというのが頻発する。そしてそういう衝突において、対話を通してその議題を煎じ詰めることよりも、相手を論破し「勝つ」ことだけが目的化しているケースというのも多い……というか、ほとんどがそういうケースであるような気がしている。たしかに、議論において覚悟を持って自分の意見を相手にぶつけることは大切だと思う。しかしそういう覚悟を持つことと、論破を目的化し「負けてしまったら自分は終わりだ」みたいな考え方をすることというのは、ちょっと別の話である気がする。後者の心情というのは、先述した「「負け組」だけは絶対にイヤだ、そうはなりたくないという焦りと陰鬱な気持ち」に捉われているだけのものなんじゃないか?

 

経済問題においては誰も「負ける」べきではないが、自意識の水準においては、場合によっては適切に「負ける」やり方だってあるんじゃないか?「ちゃんと負けること」によってむしろ楽になれたり、物事をきちんと直視できるようになったりすることだってあるんじゃないか?というようなことを、最近ずっと考えている。例えば自分より下の世代の人間が生まれてくること、自分では思いつかなかったような考え方や行動の仕方をその人々が編み出していくこと、そういう新しい動きや流れに「ちゃんと負けること」によって、自分の自意識をおだやかに弔っていくこともできるんじゃないか?

 

個人的な体感として、(自分も含めた)中年男性には、やはりこういう「ちゃんと負けること」が下手な人が多いような気がしている。なんでもかんでもマウントを取って勝とうとしたり、また逆に極端な自己卑下によって物事を直視しようとしなかったり、「男の子のプライド」を肥大化させこじらせてしまっている人というのがやっぱり多い。「ちゃんと負けること」で、そういう硬直化を乗り越えられる可能性があるのではないか。自意識の水準で「ちゃんと負ける」ことって、脅えるような怖いことでは実はないんじゃないか。もちろん、自意識はそれそのものとしてだけ独立したものではなく、経済や社会における問題と繋がったものではあるから、話は単純ではないんだけども。今後またしばらく考えてみる。