パブリックなレベルとパーソナルなレベルとを考えるときに、両者を混然一体とさせていくことの方が「革命的」であり得る、ってことなんだろうとは思うんだけど。ただ自分はこの二つを区分けするやり方しかできない。それが例えば、片手に戦後民主主義・片手にサブカル、みたいな言い方になったりする。
パーソナルなレベルにおけるあらゆることにも、政治性はもちろん宿っている。が、パーソナルな「私」と世界そのものを直結させるような態度=あらゆる物事を自分の自意識の問題ばかりに回収してしまうような態度が、とにかくイヤなんだよな。ぼく自身が自意識過剰なタイプだからだと思うんだけど。
TwitterみたいなSNSの登場以降は、パブリックなレベルにおける諸々の問題を、パーソナルな「私」語りのための素材にするような態度が、以前に増してカジュアルなものになった。そこに「革命的」な想像力が生まれ得ると考えるか、単なる自意識への閉塞だけがあると考えるかは、人によるだろうけど。
パブリックなレベルで実際に行動しようとするなら、具体的な方法が必要になる。他者とのコミュニケーションや調整が必要になる。当たり前の話だけど。パーソナルな自意識を肥大化させているだけではどうにもならない。しかし同時に、ある種のサブカルチャー表現は、そういう厄介な自意識を引き受け得る。
パブリック/パーソナルの境界を破壊しろという煽動は、今もあらゆる場所に遍在している。迷惑系YouTuberみたいなものだってそういうことだ。パブリックにおける欺瞞を、寄席的な限定空間=パーソナルな領域において衝くような構図は、現代では成立しない。悪趣味なジョークは、公共レベルに直接届く。
公的/私的の境界破壊は、別に迷惑系YouTuberみたいな人々によってだけではなく、ある種の右派・左派どちらからも志向され(続けて)いる。「革命的」な想像力。サブカルの想像力を私的なレベルに封じ込めようとする自分のような態度は、そういう人々から見れば反動的であるだろう。が、これで行く。