「サブカル」的アイロニーをパブリックなレベルにおいてどこまで許容するのか、みたいな問題がある。それが過剰になれば冷笑的なものの後押しになっちゃうし、しかしそれを拒絶し過ぎるとそれはそれで、ある種の「自由」が減衰していく。公共性そのものはもちろん護られなければならない一方で、アイロニカルな表現の「自由」をどこまで確保していくべきか、みたいな。ただ、N国みたいな最悪さの現出によって、「サブカル」的なアイロニーはもう随分前から骨抜きにされてしまっているわけだけど。
そして、アイロニカルではない、「真っすぐ」な言葉や表現が、資本や国家に回収されていく可能性というのはものすごく大きいと思う。更に、例えば「真っすぐ」に反権威的・反国家的であることも、現代では「成り上がり」のひとつの方法になり得ることがまたややこしい。「真っすぐ」であることを恐れてはいけないが、そこにあるリスクもまた理解しておく必要はある。2010年代以来の「真っすぐ」さは、可能性であると同時に危うさでもある。ぼく自身は完全に、この「真っすぐ」さでやってきてしまった人間であるわけだが。
加えて言うと、「成り上がり」については、どんな陣営においてもあまり否定されなくなってきてしまっている気はする。結果的にそれは権威主義の蔓延に繋がる。誰もが「著名人」が大好きだし、売文業者やミュージシャンは有名になりたがるし、そして金持ちであることは結局ステータスだ。