■『ホットスポット』を観終えてから考えていることのメモ。
テレビドラマ『ホットスポット』、最終回まで楽しく観た。好きなドラマ。しかしこれ、良くも悪くもとても戦後日本的かつ小市民的なドラマというか、「なんとなく」リベラル、っていう世界観を持つ作品だと思う。外部から隔絶されたコミュニティが、さまざまな存在を「なんとなく」包摂していく。登場人物たちは皆「なんとなく」優しいんだけど、それは強い根拠や理念を持つ優しさではなくて、小市民的な日常コミュニケーションの反復(このあたりの描写がとても上手い。コント的な会話劇の連続で構成されてるんだけど、そのなかでの笑いやキャラ描写のさじ加減が絶妙というか、これ以上やるとやり過ぎ、の手前に必ず留まり続ける)のなかで「なんとなく」維持されるものでしかない。なので、うっすらとした反転可能性への予感が続く。また劇中で宇宙人たちがマイノリティとして在る理由のなかに、コミュニティ側の侵略性や抑圧性はほとんど設定されない。コミュニティを象徴するものとしての富士山も、無色透明なものとして登場する。
ただ、このように表現される良くも悪くもの「なんとなく」性(と、そこから生まれる優しさ)って、日本社会からむしろ消えつつあるものという気がする。作中では汚職政治&地域開発が「悪」として対象化され、レイクホテルや富士山を「保守」する形になる。しかしいま現在、現実の日本各所で志向され(てしまってい)るのはむしろ、各方面からの「改革=革新」だろう。
テレビドラマは大衆文化である。そのパッケージの特性上、マイナー文化が持ち得る批評性やエッジィな表現が成立する可能性は基本的に低い。自分はむしろ社会における大衆・小市民的な存在の姿を(意識的にも無意識的にも)描き得る可能性こそを、大衆文化に求めている。
で、『ホットスポット』自体は、かつてであれば大衆ど真ん中というよりも、日本的な意味での「サブカル」枠のなかで受容されたような側面(キャスティング、美術、挿入歌など諸々の面で)が強い作品だと思う。実質的にこのドラマは、「サブカル」が現在の大衆に向けて、「なんとなく」の優しさ=かつての戦後日本的大衆が持っていた(かもしれない)優しさを再提出するような構図に、結果的になっている気がする。そもそも「サブカル」とは大掴みに言えば、戦後民主主義的なものに対するアイロニカルなカウンター文化だったとは言えるわけで、この構図の取り方が成立しているなら、それはミイラ取りがミイラになったような状況であるということなのかもしれない。が、恐らく戦後的優しさをいま「保守」しようとするのはもはや、かつての「サブカル」のなかの一部だけである気が、以前から自分はしている。
本作の脚本を手がけたバカリズムの長いキャリアのなかにはいろんな側面があるけれど、出発点にウッチャンナンチャンからの影響があったということが自分は常に気になっている。70~80年代欽ちゃん(≠コント55号の萩本欽一)がテレビ世界で演出したような優しさは、基本的には戦後的「なんとなく」の優しさのなかに含まれていたと言っていいと思う(自分は世代的には、『ちびまる子ちゃん』でまる子がうれしそうに『欽ドン!』を観る場面が、その歴史を知った最初の機会だった)。そういう優しい笑いを80年代末以降に担ったのがウンナンだったとして、だからこそ彼らはある時期までエッジィな「サブカル」からバカにされていたのだと思う。升野がウンナンからの影響をメディア上で口にするたびに、「?」みたいな空気が周囲に漂っていた記憶がある。しかし結果的に、ウンナンが表現していたような「なんとなく」の優しさ=戦後日本的「優しさ」への旋回(?)が、「サブカル」的枠組みのなかでもある時期以降に起こった気がする。2010年代以降の、迷惑系YouTuberによるかつての鬼畜系よりも強力な露悪性だったり、「リベラル」の微温性を超えようとする急進左派の革新志向だったりが伸長する現在では実際、「サブカル」にできることはそんなに多くはない。
言ってしまえば、いまだに「サブカル」にこだわって、かついまさら戦後民主主義的感覚に依拠しようとしている自分の在り方は、先述したような旋回(?)がもたらす志向に完全に収まってしまうわけである(自分の場合は旋回・転向したつもりはなく、「サブカル」が好きなのにアイロニカルな表現に対しては元々鈍感だった、というだけの話なのだが)。それは明らかに「保守」的な身振りであって、さまざまな方面から「革新」を志向する人々によって批判されて然るべき態度だとも思う。
ただ、例えば『ホットスポット』には、「とっさの時に、(それが誰であっても)目の前にいる人を助けられるようにしたい」とか、「友だちに自分のことを話したい」とか、そういう小市民的な小さな優しさや勇気を、ギャグを交えつつ、しかしその根幹の部分は茶化さずに表現する(その部分には反転可能性の予感はなかったと思う)ようなところがあったと自分は感じる。「なんとなく」という在り方のなかに、マジョリティの傲慢が確実にあるとして。しかし同時に、日常コミュニケーションの手触りのなかからこそ生まれる「なんとなく」の優しさや勇気が持つ可能性も、またあり得るとして。後者についてもっと考えたい気持ちが、自分にはどうしてもあるのだ。そこにはたして、「他者」に手を伸ばすことへの可能性があるのかないのかを、考えたいのだ。