■『ドリーム・シナリオ』観たんだけど、自分はこの映画ぜんぜん合わなくてダメだった。ユーモアの感覚がまったく好みじゃなくて。題材として夢を扱ってる割に、空間や雰囲気におけるズレ・違和感を楽しめる場面がほぼ無くて、それも観てて辛かった……。最後の15分ぐらいは少し楽しめた、という感じ……。
■めちゃめちゃ久しぶりに観た『激突!』は最高でした。おもしれ~~
■『ホットスポット』8話まで観た。面白い。とっさの時に人を助けられるようにしたい、後悔したくない、みたいな話をギャグを交えながら描くってのは、かなり重要なことやってる気がする。
会話描写がとにかく上手なのと、話の腰を折るギャグを要所要所にきちんと入れながらも、そこまでにしていた話の本質・コアの部分は茶化していない。その匙加減がすごく上手い。友だちに自分のことを話したいだとか、出くわした人をとっさに助けられるようにしたいだとか、そういう部分は茶化してない。「小市民」的なキャラクターたちをここまで描けているドラマ、最近あんまり無いんじゃないだろうか。
「小市民」的な優しさ(とその脆さ)や残酷さを、公共というレベルの在り方が激しく変化する現代において描くことはとても難しくて(その表現がマイナーカルチャーとしてではなく、マスな形で提示されるなら尚更)、そのあたりについて結果的にチャレンジしてしまっている作品として、自分はこのドラマを観てる。かつてのテレビドラマ(=大衆向け物語作品)は常に何がしかそういう役割を引き受けざるを得なかったんだろうけど、良くも悪くもそういう時代ではなくなったから。教条的・倫理主義的な形でも、露悪的な開き直りでも、どちらでもない形で「小市民」を描くことは、とても難しい。
■読んだ記事。まあただ、戦後日本の「日本型市場経済」が、非民主的かつ非人道的(諸々の差別や抑圧の温存)な部分を大きく抱えていたのは事実だろうし。自分みたいな「戦後民主主義者」こそが、そのあたりを問われることになるわけだけど。
「加えて、日本では、1990年代の半ば頃、新自由主義の後押しをした議論に「1940年体制」論というのがありました。私は、それ以前のいわゆる「日本型市場経済」というのは、リンドが言う民主的多元主義の日本版そのものだったと思います。
しかし、「1940年体制」論のなかで、「日本型市場経済」は戦時体制だ、非民主的な経済システムだとさんざん批判され、こうした批判に日本の左派が飛びついちゃった。結局、新自由主義を止める役割を担うはずの左派がむしろ、新自由主義を後押ししてしまったんです」
加速主義が生み出す「頭でっかちな認知エリート」 ナショナリズムがインテリたちに不人気な理由 2024/03/15
https://toyokeizai.net/articles/-/739346
■簡素で軽いテキストデータや音声データみたいなものが、個人的にいまアツい。リッチなデータはダサい、ぐらいのことを勢いで言いたい気持ち。
「身軽なインターネット」みたいな感覚が、なんか妙に楽しい。なんでかはよくわかんない。
■2008-2017がリアルタイムウェブ&大規模ソーシャルネットワークの全面化プロセスの時代だったとして、2018-2027は生成AIの全面化プロセスの時代って感じかね。あと2~3年で基本的な環境は構築完了になってしまうんだろうな。
■やっぱ、いくつかの巨大プラットフォームに集約されていくっていう状況自体がつまんないんだよな。自主流通・販売回路の模索行為自体が面白いわけで。
そしてデータサイズがデカいものは、どうしても巨大プラットフォーム上でやらざるを得なくなりがちっていう問題がある。サイズが軽いものなら、いろいろ選択肢が生まれやすい。
リッチなサイズや解像度の快楽とは別の快感基準を開拓できたらいいんだろうなーと。ローファイ志向って意味ではなく。
■自分の生活が中道的ライフスタイルの範疇に収まってしまっていることに自覚的であるべきだとは思うけど、そのことに開き直るべきではないと思う。
開き直らず、反省パフォーマンスにも行かず、というルートを、開拓できるかどうか。
■Bluesky/AT protocolが目指しているのは、relayのクロールによって各PDSの投稿をグローバルに拾う・広範囲のテキスト検索を行えるようにする、ってことなんだろうけど。しかしAT protocolの仕組みだと、各ユーザーの投稿に対するモデレーション責任を負う者=「管理人」の所在が見えにくくなる気がする。素人考えではあるが。基本的にはPDSの管理者がそういった責任を負うことになるはずだけど、同じPDSを使っているユーザー同士であっても、別のrelayやApp viewを使っている場合、それぞれに対して可視化される投稿群は別物になってくるはず。そうなると各PDSはコミュニティ的な機能はあまり持たず、各ユーザーに対する個人情報保管代行サービスのようなニュアンスが強くなるんじゃないか? そういう構図のなかで問題のある投稿が行われた場合、ユーザー・「管理者」間で適切なやりとりは生まれ得るんだろうか。結果としてのBANも含めたコミュニティ内の調整議論よりも、環境レベルで特定ユーザーや投稿を強制的に不可視化してしまう=見えない「権力」執行が機能しやすくなる、って可能性が高くないかね?
PDSの「管理人」が特定の投稿やユーザーを自己判断でBANした場合も、PDS自体に(良くも悪くもの)共同自治性が薄い場合、その是非についてのユーザー間議論は起こりにくいだろう。またrelayの「管理人」、App viewの「管理人」においては、見えない「権力」を発動させることはより容易だろう。何を見せるか見せないかという設定自体をコントロールできるわけだから。その設定条件について詳しくないライトユーザーには、自分がどのような条件のもとに投稿群を見せられているのか自体が理解しづらい。
Bluesky/AT Protocolにおいては、ユーザーはグローバルなコミュニケーション可能性を得られる代わりに、かつての時代に増して環境管理的な「権力」を自明化させられ受け入れさせられる側面がある気がする。relayやApp viewの内実は開示されると言っても、自分含めた素人には、その条件設定や正確性については実際問題さっぱりわからないわけで。今にも増して更にブラックボックスが増えていくウェブ環境に深く身を委ねるの、単純に不快じゃないですかね?
■いま現在ウェブ上にコンテンツをアップロードすることは、当事者の意志の在り方に関わらず、各種AIにエサを提供する行為とイコールになる。
XにおけるGrokはそのわかりやすい例。Xユーザーとしての投稿行為は、イーロン・マスクの小作人として無償労働することを意味する。
自分がウェブ上にアップロードしたもの=作物がAIのウルトラ膨大なエサの一部になっても、大抵の人間は気にしない(デジタルな作物は手元から減ることもない)。
ただ、自分の作物を食べに来てくれるのが巨大資本によるAIばかりになっていくなら、自己表現として、もしくは商売として作物を作ろうとしていた人々の大半は、かつてとは異なる在り方を選択せざるを得なくなる。
2000~2010年代のGoogle検索や各種ソーシャルメディアはたしかに胴元をぼろ儲けさせたが、ユーザー側にも主体性を維持する余地がギリギリ残されていた。生成AI以降のウェブ世界は、当時とは別の段階に入る。管理・搾取のレベルがこれまでとは違う。
2000〜2010年代には、巨大資本がプラットフォーム上でのコミュニケーション回路を提供し、そこでコミュニケーションを行うユーザーたちはそれまでよりも大きな交流可能性を得つつ、同時にプラットフォームに対する無償労働者としての立場も余儀なくされていた。
しかし生成AI以降の世界では、交流可能性は縮小し(自分が作った作物を直接食べに来るユーザーはほとんどいなくなる)、無償労働性は肥大化する(あらゆる作物をAIがハイスピードで食べに来る)。
「インターネットが、自分にとっての世界を広げてくれた」と個人が言い得る側面が、2000〜2010年代あたりまでには一応ギリギリあったとぼくは思っている。そこに巨大プラットフォームに対する無償労働としての側面が強くあったのだとしても。
しかしAIウェブスクレイピングが極度に発達した世界で個別のユーザーが遭遇するのは、他者とのコミュニケーション可能性ではなく、自分の思考・行動が集合的な情報とダイレクト接続される状況である。そのことを自由化・民主化と呼ぶかどうかが、問題になる。
端的に言えば、生成AIサービスが廉価で一般ユーザーに提供されていくことを、ぼくは自由化とも民主化とも考えない。情報の解放や構造化された方法の教育・学習はかつても今も変わらず重要だが、それらはあくまで手段でしかなく、むしろ解放された情報や方法をどのように運用するか、その運用のなかでどのような差異が生まれてくるか、ということに問題の中心がこれまでもあったはずだ。あまりにもベタな話ではあるが。集合的な情報に思考や行動をダイレクト接続し続けたとき、大抵の人間は自分なりの運用を維持することはほぼ不可能だろう。どう考えても、主導権は集合情報(とその「管理人」)の側に移る。
今後さらに激化していくのは、できるだけ管理責任をとらずに「管理人」としての利益を得る立場の奪い合いだろう。
AT Protocolにおいてrelayが特定のPDSをひっそりとクロールから排除したとしても、その権力構造はひどく見えにくい。そしてAIスクレイピングが個人の表現に対する他者からのアクセス機会を奪ったとしても、その権力構造もまたとても見えにくい。そうした見えない権力を如何にして大なり小なり手に入れ「管理」し利益を得るかが、いま争われているということだろう。